列車の旅
2016年5月2日
列車の中。正直特に書くことはない。
43時間乗ることになり、現在10時間ほど乗車しているのであと33時間ぐらい。
適当に景色を眺めたり、眠くなった時に仮眠を取ったりしていた。
昼頃になるとおなかが空いてきたので、食堂車に行ってきた。
食堂車は結構な賑わいだった。というより車掌さんが半分ぐらいを占めており、もう半分が乗客だった。食堂車で寝ている客もいる。
席に案内されたので、座ってからメニューを見る。定食みたいなものがあったので指さして40元払った。
…
…
30分以上経ったがなかなか料理を持ってきてくれなかった。
流石にこれはひどいなと思ったので、ウェイトレスに言いにいった。すると「???」みたいな顔をされた…。
完全に私のこと(存在)を忘れているのだ!
「料理を忘れてた。ごめんなさい」ならともかく、「私あなたからお金をもらったかしら?」みたいな表情をしてくる。
何か言おうとしたが言葉が出てこないので、ウェイトレスが
「食事がしたいならお金を払いなさい。40元」みたいなことを言ってきた。
彼女の行動が理解できず、そして中国語も話せないので、「( ゚Д゚)ハァ?」みたいな顔していたら、
ポケットから40元取り出して、「これが40元!」みたいなことをしてきた。
(…いや、そんなことぐらいわかってるがな…)
と思っていると、近くにいた車掌さんが加わってきた。
私は中国語を話すことが出来なかったので、紙を渡され「どうしたのか書け」みたいなことを言われたので、
I Paid before.
我払った。(我は中国語で『私』という意味)
と英語と日本語でとにかく書いてみた。
(情けない…)
その時食堂車には20人ほどいたが、誰もこの文字を理解できなかった。
ていうか、みんな私を見て笑っているんだが…。
車掌さんがスマホを取り出し、I paid before.をようやく理解してくれた。
そのあと車掌さんとウェイトレスがなんかやり取りしたあと、車掌さんが「持ってきてあげるから席に座りなさい。」みたいなことを言ってきた。ようやくひと段落ついた。
数分後に食事が来た。
ああ、言葉が話せないとこんなにも苦労するものなのか…
今まで現地語がわからない国にはたくさん行ったが、英語で何とかなっていたので、ここまで大変な思いをしたことはなかった。そう思いながら昼食を味わった。
結局食堂車で1時間ほど費やした。まあ時間はまだまだあるので別にいいけど…。
途中で蘭州という駅に到着する。ここでカップラーメンを購入した。
もう食堂車はいいや。
列車は再び走り出す。このあと再び眠くなったので仮眠した。
午後17時前に、西寧という駅に到着。ここから先が青蔵鉄道になり、これからさらに20時間ほど乗車することになる。ようやく青蔵鉄道である。気持ちは高まる。
そして列車が走り出してしばらくすると以下のようなアナウンスが流れた。
今回だけは先に英語が流れ、その後に中国語の放送が流れた(覚えている内容を書くので要約しています)。
「チベット青蔵鉄道へようこそ。
この鉄道は多くの人にチベットの広大さを体験してもらうため、
そしてチベットの解放と交流を願い長い年月をかけて建築されました。
是非皆さんにチベットの美しさすばらしさを経験してもらい、思い出のひと時にしてください。」
(このあと青蔵鉄道建設の経緯(歴史、期間、費用、困難さなど)について説明)
というのが10分ぐらい流れる。
感想
「…(聞こえは非常にいいが、これは明らかにプロパガンダだな…)」
と思いながら複雑な気持ちになる。青蔵鉄道には、漢民族をチベット自治区に送り込みチベット人と結婚させることにより、チベット民族を浄化するという中国共産党の影の目的もあるため、素直には喜べないのだが、やっぱり長距離列車に乗ることはうれしい。日本ではもう楽しめないし…。
その放送が終わってしばらくすると、車掌さんが「高所に登るにあたっての同意書」みたいな用紙を持ってきたので記入した。私が外国人だったせいか、しばらくすると別の車掌さんも来て、「身分証とパーミットを見せろ」みたいなことを言ってきた。私がパスポートとパーミットを見せたら、親指を立ててニッコリしてきた。
西寧駅を抜けてから30分もすると、あたりが草原一色に変わる。途中湖やヤクの群れがたくさんいて非常にいい景色だった。景色に見飽きるとかいう人もいるけど、私はそんなことなかった。なぜならもう二度とここには来ないのだろうと思っていたので。20:30を過ぎたぐらいでようやく陽が落ちてきた。
午後9時半前
どこかの駅に到着(恐らく德令哈駅)。ここでたくさんの乗客が降りていた。この駅を越えたところで、酸素供給口を開けるように言われ、酸素が排出される。
それと同時に「皆さんもう寝なさい」みたいなアナウンスが流れ、車掌が通路側のカーテンを閉めて回る。「晩安(お休み)」と言っていた。確かに周りには何の明かりもないので何も見えなかった。
コンパートメントにいた人たちは早々に寝ていたが、私は別に眠くなかったので、起きていた。とはいえ、0時半を過ぎたころには寝た。
つづく
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